第二章 第八話 深淵は宿命を喚起せり

 誰も居ない道は、舞っていく風に不変の如く。

 虫さえも眠り、草木は揺れず。

 夜空に浮かんでいた月もその光を閉ざした夜道に、少年は走る。

 何もかもを包み込む、怪しげな霧へ向かって。

 視界が霧がかっていくにつれ、鋼鉄に近い身には水滴がついていく。

 走行音も、自分の足音だけを共としていくと――より深く、眼に映るもの全てが白に包まれていった。

 快がこれまで見ていた現実にちじょうを、根本から塗り替えるかの様な幻惑しんじつが迎える。

 踏み砕いていく。

 氷の軌跡を辿って。

 吹雪でも、水でもない、固く美しい透明の張り詰めていた道を通っていくと、目の前に目的地が見えてきた。

 それは、かの始まりの地。

 あの少年に、誘われた屋敷。

 が、最初に訪れた際の造形とは――あまりにもかけ離れすぎていた。

 大きく立て構えられた、五芒星の描かれた門。

 それはもはや門の形を留めておらず、残されていたのは――破壊の痕跡だけだった。

 鉄屑へと成り果てた門。

 ガレキへとなり下がった、気高くそびえていた壁。

 快は眼前の建造物の変貌ぶりに驚きに顔をしかめ、つばを飲み干すとゆっくりと歩き始めた。

 歩く度に、冷たい感覚が足裏を襲うことに躊躇う事は無く。

 荒れた門の先の庭は、乱暴に崩壊した噴水と、その周りには雑草のように茨のような植物が生い茂る。

 最初に訪れた時のような、退廃的さと荘厳さを鮮烈に覚えさせる洋館の出で立ちは残されていなかった。

 玄関の扉に快が触れると、扉ははりぼてのように音を立てて後ろに倒れる。

 緊張の糸がほぐれ、役割を失せ――“主”を、失った事を理解しているかのように。

(なんだ……なんだよこれ!?)

 扉の先に広がっていたのは、廃墟と呼ぶ事すら躊躇させるもの。

 異空間と形容すべき光景が広がっていた。

 正面に据えるは階段。

 その隣の燭台に飾られ音楽を奏でていた、スノードームは氷に覆われ、床と一体化して。

 階段は、凍てつきその先には透明な壁が出来上がっていた。

 快が進めば、床に張り付いた氷は容易に砕かれていく。

 進めば進むほどに、寒さだけが暴力的に身を包む。

(寒い……)

 独り。

 吐息が白く濁る空間に。

 ふと後ろを振り向くと、扉の代わりに階段の先と同様の氷の壁が作られていた。

 快は、深呼吸し、大声を上げる――。

「あっ、アイネス! 来たぞ――」

 完全に呼びかける間もなく、それは現れた。

 冷たく、快の方にに固い感触を与えて。

「やぁ、元気だった?」

 耳を、聞いた事のある声と吐息が一気に包み込む。

 冷気と呼ぶにふさわしい、突然の息に応え快は後ろを振り返る。

 振り返った先に居たのは、夢にも出た――かの少年だった。

「……アイネス……!」

 その姿を見た瞬間、快は膝から崩れ落ちる。

 落ちた先に瞳から流れ出るものと、頬の熱だけが、冷たい空間の中で唯一の自身の体温を認識させた。

「ごめんよ……会いたかった……けど……どうしようもなかった……のに!」

 隻眼、義手、義足。

 胸を苦しめていた、忘れ難い感覚。

 戦いの記憶が――その小さな姿を前に一気に押し潰されていく。

 快が泣き崩れていると、少年はゆっくりと歩み寄る。

 快は、少年の顔を見上げた。

 その顔には――微かな、眼に光を宿していた。

「大丈夫だよ快……もう、全部楽になるから」

 放たれた言葉は、快の胸をわずかに軽くさせる。

 違和感と、同時に。

 少年が、片腕を上げると――。

 少年の腹を、黒い手が貫いた。

 白と淡水色の空間を――快の目の前で紅と、黒緋に染めていく。

 刹那の出来事に、快は瞬間的に地面を蹴った。

(誰か知らないが、またアイネスを殺すことになってたまるか!!)

 少年の腹が、浅い部分で突き出た拳を快は全力の拳で以て打ち返す――。

「うらあぁっぁ!!!」

 全力の、義手での一撃。

 一撃を放つと――拳は無残に義手を粉々に砕き、破片すら残さず消滅させていった。

 そして、黒い手は、少年の腹を何事もなかったかのように貫いた。

 快の首筋は、少年の吐きだした血反吐と、腹の内にあった生暖かい全てに塗れる。

 と同時に襲ったのは、再びの恐怖と絶望だった。

「アイネス!」

 快は、義手を大きく振りかぶった分の勢いと反動に体勢を崩し、その場でずり落ちる。

 ずり落ちていき、すれ違った先にあったのは――血に濡れた、緑眼銀髪。

 黒衣の戦友の姿だった。

「どうして……どうしてだよグリードォォ!!!!」

 館に響くは快の声。

 グリードは、ただ冷淡に手の上で穴が空き、ぶら下がったそれを見つめていた。

 血を垂れ流し続ける、小さな体を。

 グリードは貫いたままの腕を、横に軽々と振り払うと、少年の体は投げられた人形の様に身が裂かれ、力なく床を鮮血に染めていった。

「グリード……お前ええええ!!」

 床に肉のある手が着くと、快は残った三肢で体勢を立て直し、グリードの足へ躍りかかる。

 全身を動かすのは、目に映る、敵となった者の姿のみ。

「お前! お前! お前ェ!」

 快は、グリードの足を全力で噛みつく。

 が、溢れるのは自身の歯ぐきからの出血だけ。

 グリードは、全く動じておらず。

 ただ、グリードは投げ飛ばした先にある、少年の体を見据えていた。

「なあ、お前はそうやってどれほどの奴らを弄んできたんだ……? こんなとこで何籠ってるんだ外道」

 グリードが動かぬ体に向かって歩く。

 すると、グリードの体を複数本の氷柱が貫く。

 快は、グリードの背後で気づいた。

 それは背中、うなじ、両足首、両腕関節――全て、屋敷に張り詰めた氷の壁から伸びたものだった。

 そして、空間自体の空気が薄くなり始めている事にも。

「気がついちゃったァ? あはっ……あはははは!!」

 貫かれ、裂かれた筈の体は掠れた声と共に起き上がった。

 すぐさま再生した、自身の腰回りを撫で――自身の血液を舐めながら。

「残念、けどもう遅いよ兄さん……ほら!!」

 グリードが後ろを向くと、咳こみ、義手を失った快が立ち震えていた。

「ッ! まずい快!」

 グリードは体を強引に引き裂き、快の服の裾を持つと、すぐさま壁に体当たりする。

 その様を見た――少年は嘲笑を浮かべた。

「あはっ、相も変わらず乱暴だな兄さん……それが――ダイッキライなんだけど」

 関節の無い、骨を無理矢理砕き、立ち上がると少年は快を睨む。

 黄緑色の瞳で、見据えていた。

「この体は、まだしばらく、ありがたく使わせてもらうよ……」

 凍てついた屋敷は、もはや――彼のもの。

 風貌と、その力は、冒涜の限りを尽くすが如く。

 壁を通り抜け、遠くへと走り抜けるグリードは、憎々し気に呟いた。

「ラズルシェーニエ・ポグロムア……禁忌の拾参番……冒涜破壊魔人ッ!!」

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