魔界の中でも、最も謎めいた魔王の器の、悪魔属。
ふらりと食べ物を片手に現れては、目に映る者を小馬鹿にしたような笑みをたたえる、緑髪の悪魔の少年。
彼は、如何にして魔界へ堕ち、蠅の王となったのか。
これは、ある一族の末裔以外の誰も知らない、彼の者から口にされる事すらない、閉ざされし記憶__
地上界にて、人間が落とされてから三百年の時が経った頃。
その時代、一部の者は魔界へ行く事無く、人間達にその力を分け与えながら平和に時を過ごしていた。
その中で、神として崇拝されていた、後の魔族達が居た。
「皆ぁ! おはよお!」
若き豊穣神は、麦畑から村の人々へ声をかける。
「バアル・ゼブル様! おはようございます!」
煉瓦で出来た家から、その声を聴き青年は神にひれ伏した。
「今日も頑張って働け~、僕麦の面倒見てたの」
青年は、豊かに実った麦畑を見て笑みを浮かべる。
「おぉ、なんと素晴らしい、やはりバアル様の御業あってのものですね!」
「いんや、君たち人間どもさえ頑張ってるんだから、僕も頑張らなきゃねっ」
バアルゼブルは、その地でパンにあたる食物【ホブス】を齧りながら、麦を撫でる青年にウインクした。
「お心遣い、心より感謝いたします」
「ししっ」
蠅のそれに近い形状の四枚羽を震わせ、バアルゼブルは笑顔を見せた。
「バアル君! 何人間と触れ合ってるの!」
遠くから聞こえてくるのは、凛とした鈴を転がすような声。
声の主はバアルの妻、愛と戦を司る美少女神、アナトである。
「アナト、おはよっ」
バアルはアナトの頭を撫でると、アナトは満足げな顔を浮かべ、頭を向けた。
「バアル君、もっと構え」
桜色になびく髪を左右に揺らし、碧色の眼を輝かせる。
「…………そろそろ僕神殿に戻りたいんだけどなぁ~」
困り顔を見せると、アナトは顔をバアルゼブルに近づける。
「ねぇ、なんでアタシにかまってくれないの? その癖人間達と食べ物には時間割くよね? なんで?」
碧色の瞳のその奥は、鮮血の如き朱色に染まっているのが、バアルゼブルには解った。
「あ、いや………これも僕の仕事だし、ね? マイアニー………」
静かに震えるアナトをなだめるバアルゼブル。
その様子を、麦の収穫をしつつ見ていた、籠を背負った壮年の男は笑って話しかけた。
「わっはっは、美人な妻を持つと苦労しますな! わかりますぞ、そのお気持ち」
「僕んとこの美人妻は愛情が異常なんだけどね……ししっ」
村人たちの笑い声が、村中に響き渡る。
青く、澄み渡った空に温かな風が吹く春の事だった。
__収穫を終えた村人たちは、籠一杯のホブスや近辺で採れた果物を持ち、楽器を抱えて村の北にある、山の洞窟へ向かった。
入口は両開きの扉があり、村人たちを前にするとゆっくりと開いていった。
洞窟内は、ところどころ鈍く光る水晶が顔を出しており、その壁には松明が立てかけてられていた。
洞窟の最奥は、地面の岩や石が平らに削られており塵一つなく、まるで床のようになっていた。
そこが”神殿”。
豊穣神の住まう聖域である。
村人たちの先頭に立っている、村長はその場で跪く。
「今春のお恵み、心より感謝します…………バアルゼブル様のお力添えを、何卒、来春もいただきたく思い、そして、お恵みに感謝を込めて歌と不束な供え物をここに」
村長が言い終えると、村人が持っていた葦笛を吹く。
それに伴い、後列の村人たちはハープを奏でる。
響く感謝の音色はやがて、人々の前に神々の姿を顕現させた。
ハエの集合体がどこからともなく現れ、人型へ固まっていった。
「今回の演奏は気合入ってるね~」
バアルゼブルは、村人たちの前で胡坐をかき座った。
演奏が続く中、豪華な衣装に身を包んだ村の若い美女達がぞろぞろと列をなして神殿へと入ってきた。
美女たちの褐色に焼けた下半身を覆っているカウケナスの丈は太もも程の丈になっており、胸は宝玉で繋がれた、ネックレス型の胸当てを付けていた。
そして、籠に山盛りになった果物を美女たちは置いていった。
バアルゼブルはその果物を口に運び、音楽を楽しむ。
また、果物を食べるのを村人たちがみると今度は鍋とホブスを持ってきた。
鍋には村の郷土料理である、ラム肉とビーツのシチュー【ツフ】が入っている。
それは、バアルゼブルの好物だった。
鍋一杯のシチューを食べ、奏でられる音楽に心躍らせる。
宴を楽しんでいると、アナト神が弓と槍を抱え、返り血に塗れた体でバアルゼブルの隣に姿を現した。
「あっ! 宴やってるじゃない! アタシが戦に参加してる時に何遊んでるのよ、アタシも混ぜてよ!」
アナトはそう言いながら、鍋の中を覗き込む。
鍋の中身は、既にバアルゼブルの胃の中だった。
「あぁ、今春の宴も間に合わなかった~」
アナトが残念がっていると、バアルゼブルはアナトの肩を撫でる。
「ごめんね、残しとくべきだったよ」
「いいの、バアル君がお腹いっぱいになるなら。……その代わりアタシを癒せっ」
真っ赤な鎧を着たままに、アナトは抱き着く。
「うわわっ………せめて拭きなよ~………うぅ、生臭いよ……」
浮かれていた気分を盛り下げつつも、バアルゼブルは体の半分をハエの群れに変え、アナトの体に付いた血液を全てハエに舐めとらせた。
宴を終わらせ、村人たちは帰っていく。
バアルゼブルが見送りに神殿の外へ向かうと、既に空は真っ暗闇になっていた。
「ばいばい~~」
バアルゼブルは村人の後ろ姿に手を振る。
(………さて、しばらく寝ていいけど秋は忙しくなるなぁ)
しばらく とは人間感覚での三年間である。
その三年間に、村人たちは農作物の畑を休ませ、再び種を植えられるようにするのだ。
ゼブルが神殿に戻ると、アナトが待っていた。
「おかえり~、ふああ………眠い」
アナトの欠伸は、バアルゼブルに欠伸を誘った。
「だねぇ、三年間ヒマだし、一緒に寝よっか」
「そうだね、じゃあ…………おやすみなさいっ」
アナトはバアルゼブルにキスをする。
バアルゼブルはキスを受け止めると、互いに身を寄せ合った。
「んっ……おやすみぃ」
二柱は楽しかった宴、愛すべき村人たちの笑顔を瞼の裏に浮かべているうちに、暗闇へと意識は消えていった_。
「バアル君起きろ~!」
「んぇえ…………んにゃ、今何月? 何年経った?」
アナトの声で、目を覚ます。
「六月!もう四年も経ったよ!」
それを聞き、バアルゼブルは飛び起きる。
「わわっ、たいへんだ………畑の様子を見ないと」
外へ出ると、村人は誰一人として家から出ていなかった。
静寂が、村を包んでいる。
「…………? 皆、種まきを終えたのかな」
ベルゼブブが村を覗きに行くと、誰一人として村人が居なかった。
「あれ…………皆どこ?」
きょろきょろと周囲を見渡していると、村の門をくぐり人々が列を作り一斉にやってきた。
その人々は見慣れぬ、衣服を身にまとっていた。
「あ、お帰りぃ~! 皆待ってたよ、ちょっと長く寝すぎたかな?」
人懐っこい笑みで迎え、人間達に飛びつこうとした瞬間__
「近寄るな!魔族め!!」
人間たちの先頭に立つ、白装束の男が銀の剣を構えた。
「へ__?」
瞬きすら許されぬ間に、バアルゼブルの腕が斬り飛ばされる。
斬り飛ばされた腕は、煙を上げハエの死体へ形を変えた後、その場で液状に溶け出し消滅していった。
「見よ! これが自らを神と偽り続けたおぞましき魔物の正体である!」
声高らかに、白装束の男は後列に言う。
その人々は、バアルゼブルの知る者達ではなかった。
「…………痛いな、お客さんならそう言ってくれればいいのに」
瞬時にその場の地を蹴り後退し、バアルゼブルは穏やかに言う。
「ねぇ、ここら辺に住んでた人達知らない? 僕の身内なんだけどさ」
問うと、白装束の男は答えた。
「我ら竜教以外の異端、悪魔の信者共の所在など知らぬな!」
バアルゼブルは再び質問を投げかける。
「竜教? なにそれ?」
そう言った瞬間、男は激昂する。
「我ら竜教を愚弄するか! 金剛竜”エュニール”様の怒りを知るが良い悪魔!!」
白装束の男は、剣で円を描く。
すると、男の胸に下げたロザリオが輝きを纏いだす。
バアルゼブルは、初めて目にする魔術を前に目を丸くする。
「見よ、これが我らがエュニール様の奇跡である!」
そして、銀の剣はバアルゼブルの前で黄金の剣へと変質していった。
「わぁ、凄いね………でもなんでここに来たのさ」
白装束の男は再び剣を構える。
「異端を、滅ぼしに来たのだ」
「……ねぇ、ここは僕らの村なんだ。何もしないでよ」
バアルゼブルの、心からの言葉だった。
それを聞き遂げるはずも無く、白装束の男は剣を振るう。
「異端が居るのであれば、魔に従う者が居るのであればそれは魔物でしかない」
冷ややかな一撃一撃を躱すバアルゼブル。
「君らのルールを、押し付けないでくれるかな。旅がしたいなら大人しくしててよ」
バアルゼブルの言葉は、全く耳に届いていない様子だった。
「なるほど、異端には異端の世界があるという訳だ」
白装束の男が何かを呟くと、バアルゼブルの頭上から岩石が降り注ぐ。
「!!」
刹那、バアルゼブルの思考が巡る。
(避ければ、確実に道が壊される…………! なら…………!)
バアルゼブルは、魔力を体に込める。
そして、片腕をあげると巨大な突風が起こった。
突風は岩石を吹き飛ばし、村の遠くへと飛んでいった。
その光景を見た、竜教の信者たちは驚きの声をあげる。
「同志たちよ、怯むことなかれ、ただ祈るのだ」
対して、白装束の男は次の一手を放とうと拳を握り、魔力を練り上げていた。
「異端を正し、あるべき姿へ整える事こそ我らが望みであり喜びだ。それを邪魔する者は何人たりとも許さぬ」
「これこそが、救済である」
男がそう言い終えると、男の手から魔法陣が現れ、そこから巨大な岩石が飛び出した。
身構える事すらままならず、バアルゼブルは岩石を受ける。
岩石が腹部と胸部に命中した衝撃により、バアルゼブルの体の表面が潰れていった。
「ぐっはあ?!」
「害虫らしく、潰れろ」
岩石を胸部と腹部に受けながらもバアルゼブルは、その場で岩石を両腕で受け止める。
「ぐっ…………ご挨拶だねぇ…………ししっ」
そして、両腕に抱えた岩石をバアルゼブルは竜教の人々の前で粉々に砕いてみせた。
その岩石は、バアルゼブル自身の身長の二倍近くの直径だった。
「なんということだ、これほどまでに悪魔の力が強大だとは」
「じゃあ、出て行けよ…………今すぐにさぁ!!」
バアルゼブルの背中から聞こえる羽音は、轟音と化して響く。
「…………貴様如きに我らは屈さぬ、三日後に再びここへ来よう。………逃げるなよ」
男は捨て台詞を吐き、白装束の集団は魔法陣を展開し、その中へ消えていった。
「久しぶりに、こんなに怒ったなあ…………怒るのガラじゃないから嫌いなんだけど」
男達が消えるのを見て、ため息をつこうとするとバアルゼブルの口から血が噴き出る。
「げふっ…………えっ…………??」
やがてせき込むと共に、全身の複眼で捉えた視界はぼやけていった。
それはバアルゼブルにとって、初めての経験だった。
故に、動揺を隠せなかった。
(ちょっとやばいかも…………でもこれ村のみんなが帰ってきたら…………伝えないと…………! まずは…………アナトに!)
「アナト…………話があ…………うっ!」
意識が途切れると、体は、人型からハエの群れの姿へと散った。
ハエの一匹一匹の関節が脱力し、折り曲がった状態で。
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