「もう、全てが厭になったのだ」
雨粒と血に濡れ、小国の城下町でそう語るかの者の身は、もはや人に非ず。
背中から蠢く黒き触手は、周囲の全ての生命を貫き、体液を絞りつくしていく。
知性と、優しさに溢れていた瞳は、空腹の猛獣にも劣る――血に飢え切った下劣なる眼光を携えていた。
鋭く伸び切った牙を覗かせる口は、黒い液体を垂れ流して。
温もりあったはずのその者の手は、より骨ばみ、血管を浮き出させる。
「怪物だ! であえ! であえ!」
馬を駆る重騎士の特攻も、無謀に等しくその者の触手に貫かれていく。
触手に貫かれた者は、体内に宿す全ての魔力と、体液を吸いつくしてゆく。
「もう、どうでもよくなった。だが、せめて自害する前に貴様らを滅ぼさせてはくれまいか」
その者は、触手を広げ――城下町中にその先端でもって流星群の如く刺突を放つ。
一撃はレンガ造りの一軒家を潰し、ガレキの山へと変えていった。
転移魔術を発動させる間もなく、触手の餌へと人々が成り果てる様は、まさしく猛獣を前にした草食獣。
人々の祈りの助けとなっていた、純潔のロザリオの一つ一つは鮮血に穢されていった。
ひとしきり城下町が跡形も無く、破壊されるとその怪物は伸ばしていた触手を背中へと戻していく。
地上から浮いていた足が、地面に着くと足先は黒くよどんだ泥沼の様に――溶けていった。
体の一部一部は雨に流され、地面と自身の肉片の境界はやがて失われていく。
その者の姿は、まさしく――『黒き汚泥の怪物』と呼ぶべきものだった。
汚泥の怪物は、ただ茫然と、町の形を成していたはずの破壊の跡で立ち尽くす。
その頬に伝うは、溶けた粒。
雨に打たれていると、怪物の前に、小さな影が現れる。
怪物が無表情で影を見つめていると、影の正体は破れかかった、衣服を身に着けた少女の姿という事がわかった。
少女の眼には、包帯が巻かれており、両手で何かを探っている様子だった。
「ママ、パパ………どこ? いまの、雷だよね?」
聞き取り難いまでの、掠れ濁り切った声で父と母を呼ぶ。
少女は、死体を踏み抜き彷徨い歩いていく内、怪物の足にぶつかり尻もちを付いた。
濡れた地面に背中と尻を叩きつけられ、少女の声が更に曇りだしてゆく。
「ママ………痛いのやだよ……パパ……怖いのやだよ………独りにしないでよ」
怪物は、足元で泣き崩れる少女をじっと見下ろす。
少女を見つめる“瞳”は、漆黒に淀んでいた。
怪物が触手を、背中から伸ばす――。
「……もう私には、帰るところが無いのだよお嬢ちゃん。新品の本を持った時の感触も、やがてペンダントに閉まった思い出も戻らなくなっていくんだ。何も知らない内に、逢いに逝きな」
怪物が触手を振り下ろす瞬間。
少女は、怪物の足に縋りついた。
「……その声、ママだよね?」
少女が発した言葉は、怪物にとって意外なものだった
触手は、みるみるうちに背中の中へしまわれていく。
豪雨に打たれ、腐り果てた樹木にすら劣る、己の醜い足にしがみつく少女の前で。
怪物は、言葉を返す。
「……いいや、私は化け物だ。自分勝手で、何も守れなかった愚者の慣れ果て――それが私だ」
黒い液体を零しつつ、その口が開かれると足元の少女はなお、怪物の足に顔を埋めた。
「違う………じゃあ、優しい化け物さんだね」
少女が穏やかな口調で言うと、怪物はしゃがみ、少女の肩をそっと掴む。
「君は目が見えないからそう言えるのだろう、良いことを教えてやろう。私の姿についてだ。」
怪物は、少女の肩を掴んだままに耳打ちし、自分の頭に生えた髪と肉体に触れさせた。
「冷たくて……柔らかい?」
少女の言葉に、怪物は頷く。
「そうだ。君みたいなさらさらの髪の毛は溶けて泥のようになってしまったし、君のような温かい体もヘドロのように黒ずんで、溶かしてしまった」
怪物が、少女の頭を撫でながら語り続けた。
そして、背中の触手を再び展開する。
その先は、ゆっくりと少女の頬に触れて。
「極めつけは、この腕。私の肋骨と肉を溶かして、一緒くたにしてしまったものだ……」
怪物が語り終えると、触手を背中へと戻していく。
少女は、話しを理解した様子で何度も頷いていた。
包帯越しの表情は、怪物から見て少し安心した様子に見えた。
「じゃあ、きっと化け物さんは私と一緒だね」
「一緒? 馬鹿を言うな。それは親にも失礼というものだろう」
怪物の言葉を聞くと、少女は笑って――包帯を取る。
そこには、眼孔だけがぽっかりと開いた、眼の跡があった。
「私は、みんなの為に目を売ったの。喉も。きっと、化け物さんもおんなじでしょ?」
少女のあどけない笑い声が、町のあった場所に響く。
後から訪れた者は、語るだろう。
そこには、醜い怪物が居た。と。
抱擁を交わし、雨粒と共に消えた――怪物が居た。と。
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